収容所のある人(フランクル)

(強制収容所にいた)この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。それにも拘わらず、私と語った時彼女は快活であった。「私をこんなひどい目に遭わしてくれた運命に対して私は感謝していますわ。」と言葉どおりに彼女は私に言った。「なぜかと言いますと、以前のブルジョア的生活で私は甘やかされていましたし、本当に真剣に精神的な望みを追ってはいなかったからですの。」その最後の日に彼女はまったく内面の世界へと向いていた。「あそこにある樹はひとりぽっちの私のただ一つのお友達ですの。」と彼女は言い、バラックの窓の外を指した。外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。病人の寝台の所に屈んで外をみるとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蝋燭のような花をつけた一本の緑の枝を見ることができた。「この樹とよくお話しますの。」と彼女は言った。私は一寸まごついて彼女の言葉の意味が判らなかった。役女は譫妄状態で幻覚を起しているのだろうか? 不思議に思って私は彼女に訊いた。「樹はあなたに何か返事をしましたか?── しましたって!──では何て樹は言ったのですか?」彼女は答えた。「あの樹はこう申しましたの。私はここにいる──私は──ここに──いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ……。」
※カスタニエン=マロニエ
既述のように強制収容所の人間における内面的生活の崩壊の究極的な理由は、種々数えあげられた心理的身体的原因の中に存しないで、ある自由な決断に基づくものだとすれば、このことはもっとも詳細に述べられなくてはならない。収容所の囚人についての心理学的観察は、まず最初に精神的人間的に崩壊していった人間のみが、収容所の世界の影響に陥ってしまうということを示している。またもはや内面的な拠り所を持たなくなった人間のみが崩壊せしめられたということを明らかにしている。ではこの内的な拠り所とはどこに存するべきであり、どこに存し得るのであろうか? これがいまやわれわれの問題なのである。

かつての収容所囚人の体験の報告や談話が一致して示していることは、収容所において最も重苦しいことは囚人がいつまで自分が収容所にいなければならないか全く知らないという事実であった。

(中略)

ラテン語のfinisという言葉は周知のごとく二つの意味を持っている。すなわち終りということと目的ということである。ところで彼の(仮の)存在様式の終りを見究めることのできない人間は、また目的に向って生きることもできないのである。彼は普通の人間がするように将来に向って存在するということはもはやできないのである

フランクル 霜山徳爾訳,『夜と霧』,みすず書房

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