夜と霧(フランクル)

強制収容所における人間を内的に緊張せしめようとするには、先ず未来のある日的に向って緊張せしめることを前提とするのである。囚人に対するあらゆる心理治療的あるいは精神衛生的努力が従うべき標語としては、おそらくニーチェの「何故生きるかを知っている者は、殆んどあらゆる如何に生きるか、に耐えるのだ。」という言葉が最も適切であろう。すなわち囚人が現在の生活の恐ろしい「如何に」 (状態) に、つまり収容所生活のすさまじさに、内的に抵抗に身を維持するためには何らかの機会がある限り囚人にその生きるための「何故」をすなわち生活目的を意識せしめねはならないのである。

反対に何の生活目標をももはや眼前に見ず、何の生活内容ももたず、その生活において何の目的も認めない人は哀れである。 彼の存在の意味は彼から消えてしまうのである。 そして同時に頑張り通す何らの意義もなくなってしまうのである。 このようにして全く拠り所を失った人々はやがて仆(たお)れて行くのである。あらゆる励ましの言葉に反対し、あらゆる慰めを拒絶する彼等の典型的な口のきき方は、普通次のようであった。 「私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていないのだ。」これに対して人は如何に答えるべきであろうか。

ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。 そのことをわれわれは学はねばならず、また絶望している人間に教えなけれはならないのである。哲学的に誇張して言えは、ここではコペルニクス的転回が問題なのであると云えよう。すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなけれはならないのである。 人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果すこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。

この日々の要求と存在の意味とは人毎に変るし、また瞬間毎に変化するのである。 従って人生の生活の意味は決して一般的に述べられないし、この意味についての問いは一般的には答えられないのである。ここで意味される人生は決して漠然としたものではなく、常にある具体的なものである。各人にとって唯一つで一回的である人間の運命は、この具体性を伴っているのである。 如何なる人間、如何なる運命も他のそれと比較され得ないのである。 如何なる状況も繰り返されないのである。そしてその状況ごとに人間は異なった行動へと呼びかけられているのである。 彼の具体的な状況はある場合には彼から積極的に運命を形成する創造的活動を求め、ある時には体験しつつ(亨受しつつ)ある価値可能性を実現化することを求め、また時には運命を──-既述のように「彼の十字架」として──率直に自らに担うことを要求するのである。 しかしどの状況もその一回性と唯一性とによって特徴づけられているのであり、それは具体的な状況の中に含まれているのである。

ところで具体的な運命が人間にある苦悩を課する限り、人間ほこの苦悩の中にも一つの課題、しかもやはり一回的な運命を見なければならないのである。 人間は苦悩に対して、彼がこの苦悩に満ちた運命と共にこの世界でただ一人一回だけ立っているという意識にまで達せねはならないのである。 何人も彼から苦悩を取り去ることはできないのである。何人も彼の代わりに苦悩を苦しみぬくことはできないのである。 まさにその運命に当った彼自身がこの苦悩を担うということの中に独自な業績に対するただ一度の可能性が存在するのである。

強制収容所にいるわれわれにとってはそれは決して現実離れのした思弁ではなかった。 かかる考えはわれわれを救うことのできる唯一の考えであったのである! 何故ならはこの考えこそ生命が助かる何の機会もないような時に、われわれを絶望せしめない唯一の思想であったからである。 素朴に考えられるような人生の意味といった問題からわれわれは遠く離れていたのであり、創造的な活動がある日的を実現するなどということは思いも及ばなかったからである。我々にとって問題なのは、死を含んだ生活の意義であり、生命の意味のみならず苦悩と死のそれとを含む全体的な生命の意義であったのである。

フランクル 霜山徳爾訳,『夜と霧』,みすず書房

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