友愛(フィリア)の定義

(友であるためには、)先に述べた理由のどれか一つにより,相互に好意を抱き、お互が相手の善を願うこと、しかもそのことが共に相手方に知られていること(が必要である)。

δεῖ ἄρα εὐνοεῖν ἀλλήλοις καὶ βούλεσθαι τἀγαθὰ μὴ λανθάνοντας δι᾽ ἕν τι τῶν εἰρημένων.

アリストテレス,岩田靖夫訳(「愛について」『北海道大学文学部紀要』,1970より引用),『ニコマコス倫理学』第8巻第2章

 

※「愛されうる」3条件

というのも,すべてのものが愛されるのではなく,愛されうるものだけが愛されるのであって,この愛されうるものとは,「善いἀγαθὸνもの」であるか,「快いἡδὺもの」であるか,「有用なχρήσιμονもの」であるかのいずれかだと考えられるからである。

δοκεῖ γὰρ οὐ πᾶν φιλεῖσθαι ἀλλὰ τὸ φιλητόν, τοῦτο δ᾽ εἶναι ἀγαθὸν ἢ ἡδὺ ἢ χρήσιμον

アリストテレス,神崎繁訳,『ニコマコス倫理学』第8巻第2章,新版 アリストテレス全集15,岩波書店

 

有用さのゆえにお互い愛しあっている者たちは、その人自身に基づいてではなく,お互いに何か善いものがお互いからもたらされるがゆえに,愛するのである。また,快楽のゆえに愛好する者たちも同様である。というのも,人は機知に富んだ人を,何かそうした性質のゆえに好むのではなく、自分自身にとって愉快だから好むからである。そこでまた,有用さのゆえに愛する者たちは,自分自身にとって善いもののゆえに愛情を抱くのであり,また快楽のゆえに愛する者たちも,自分自身にとって快いもののゆえに愛情を抱くのであって,愛される人自身〈のあり方だけ〉に基づいてではなく,その人が有用であるとか,愉快であるとかというかぎりにおいて、愛情を抱くのである。

そこでまた,以上の[快と有用さとに基づく二つの種類の]友愛は,付帯的な意味で友愛であるにすぎない。なぜなら,それらの場合,愛される者がまさに愛される者であるのは,愛されるというそのかぎりにおいてではなく,一方は何か善いものを,他方は快楽をもちらすかぎりにおいてだからである。そのために,愛される者が同じような状態を保つのでないかぎり,そうした友愛は容易に解消されうるのである。なぜなせ,愛する者は,相手がもはや快や有用さを与えなくなれば,愛するのをやめてしまうからである。

(中略)

これに対して,完全な友愛とは,徳に基づいて互いに似た善き人々のあいだに結ばれるものである。なぜなら,完全な友愛にある者たちは,互いに相手にとって善いことを同じように望むが,それはお互い善き人として,相手自身の善さに基づいたものだからである。つまり,友人にとってそれこそ善いものを,当の友人のために望む者は,真の友人である(というのも,それは彼ら自身のあり方によるもので,付帯的な仕方によるものではないからである)。したがって,こうした者たちの友愛は,彼らが善き人であるかぎり続くのである──そもそも、徳は永続的なものなのである。

同第8巻第3章

 

 

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