俺はテレビじゃない!

 

「俺はテレビじゃない!」

  ……21世紀のために、「少子化」で見えてきた僕らの戦後モラルを総括しよう。


これは、2000年2月29日に城西国際大学で実施された連続教育シンポジウム「21世紀の教育を考える」の第一回「少子化社会の高校と大学」で、パネリストとして発表した際の発表梗概です。この発表は当初40分で予定されていました。が、都合で15分に短縮されたため、ここでは当初用意した元原稿を掲載します。実際の発表内容については、『JIU』第一号,2000.5をご参照下さい。

1 茶髪・ガングロ・猟奇事件……。若者は、「人の道」を見失っているのか。否。彼らは、戦後の民主教育の輝かしい成功例なのだ。
1-1 三つの事例から
 はじめまして。不祥事続発の千葉県で高校教師をしてます。そういった反省をふまえて、今回はモラルの問題を中心にお話ししたいと思います。
 一つ心配があります。皆さんがこの発表に期待するのが、もし高校現場での実践事例だったとしたら、期待を裏切ってしまうんじゃないかと。私は、そういうことを言うつもりはありません。たしかに、国際理解教育について、いくつかの実践をしてはいます。でも、ここでお話するのは、そうした実践をしている途中で、どうしても気になったこと。「これは、こっちに措いておいて」では、教育実践者として失格なんじゃないかと感じた、本質的なこと……そういう理念的なことを、ここではお話ししたいと思います。「21世紀教育への提言」というシンポのテーマにも、こちらの方がよく合うとも思いますし。
 とりあえず、僕が教師をしていてガーンと来た二人の生徒のことばから始めたいと思います。
 一つは、「日本人なのが恥ずかしい」。僕は、高校では、国際部というところに所属していて、国際交流の仕事でほぼ毎年のように英語圏に生徒を連れて行きます。97年の春には、ニュージーランドに連れて行きました。その帰り、オークランドでトランジットしている時に、高1の女子生徒が僕のところにちょこちょこって来て、「先生、なんか日本人なのが恥ずかしい」って言うんです。まじめな生徒です。しかも、無口な方で普段僕に話しかけるなんてことは積極的にはしない子なんです。だから、僕にどうしても言いたくて、わざわざ言いにきたわけですよね。ショックでした。今まで僕は何のために国際交流なんて仕事してたんだろう、それよりも、この子は、何十万というお金を払ってここに来ている。その成果が「日本人が恥ずかしい」か。もう、考え込んじゃいましたよね。
 もう一つは、「関係ねーだろ」。こういうことがありました。休み時間。男子トイレから煙りがあがってる。「あ、やってるな」。ここいらへんは、高校に通った経験のある男性ならピンと来るはずです。で、「御用だ。」生徒は、ちょうど、たばこを、こんなふうにして手に挟んでたところでした。もちろん、タバコに火がついてるんです。後は、お白州ですよね。生徒指導室行きです。ところが、その生徒が平然と言うわけです。「いえ、僕はタバコなんて吸ってません」。どういうことかというと、「僕は用を足しにトイレに入った。そうしたら火のついたタバコが便器のそばに落ちてた。『あれ~』でな感じで拾い上げたら、先生が乱入してきた」。あからさまな言い訳です。しかも、堂々と言うわけです。でも、ま、誰も信じませんよね、普通。指導は続くわけですが、最後に彼はいわゆるキレた状態になってしまって、こう言いました。「関係ねーだろ、タバコなんて、みんなやってるよ」。この一言が、今日の話のフォーカスです。
 生徒が喫煙した場合、教師はたいてい次のようなスタンスで指導します*1。要するに、「タバコを吸うと自分の為にならず、かつ、人に迷惑をかける」という線です。未成年の喫煙が法的に禁じられているの*2に、それは前面には出てきません。「未成年がなぜタバコを吸うんだ、法律違反じゃないか」と糾弾するというのはちょっと勇気がいるでしょう? 親御さんの中には、「俺の目の前なら吸ってもいい」という人も、実際います。これも「情ヲ知リテ其ノ喫煙ヲ制止セサル」ですから、罰金ですけど、これもね、まあ厳密にあてはめるのは厳しいでしょう。つまり、タバコの指導は、主としてモラルの問題として取り扱われてるんです。
 さらに、もう一つ、例をあげておきます。こちらは記憶に残っていらっしゃる方もあるかと思います。三年ほど前、文部省と総務庁で薬物使用についてのアンケートをしたんです。その時に、高校生が、少なからぬ割合で、「薬物使用は個人の自由」「(使用は)他人に迷惑をかけていないので、使うかどうかは個人の自由」と答えたというものです*3
 さて、この三つがどう結びつくのか……というのが、今日のお話の〈売り〉です。
1-2 国際交流で、生徒は本当は何を得るか?
 交換留学して、生徒に、まず「どう感じる?」って聞くんです。必ず答えるのが、「自由」。私は、アメリカの南部、ニュージーランド、オーストラリアと生徒を連れて行きました。来月もオーストラリアに行きます。たしかに、自由な側面もありますが、そうした英語圏の生徒は、それほど自由じゃない。アメリカの学校には制服がありませんでしたが、南半球は制服ありです。最近はアメリカでも私立だけじゃなくて、公立も制服がブームなのはご存じの通りです。だから、完全に自由じゃない。国旗・国家の問題なんか、とんでもない。オーストリラリアの生徒に国家歌えっていったら、恥ずかしそうにですが、必ず歌います。アメリカでもニュージーランドでも、オーストラリアでも、全校集会の時、必ず、大きな声で国家斉唱、国旗掲揚です。日本人生徒も、行き先の国家を知ってたら、大声で歌いますよ。そういう点、現実的には、少しも自由じゃない。
 じゃ、彼女たちは、何を見て自由だと感じるのか? まずピアスがオーケー、髪の毛染めてもいい、だから自由だっていいます。焦点はそこに絞られる。つまり、日本で禁じられているものが許されるから自由だと。これ、彼女たちの自由観の貧弱さを言いたいんじゃありません。高校生は、実にプライベートな、私的な領域に関する自由にこだわります。お子さんのいる方なら、一度くらい経験あるんじゃないでしょうか。「俺のモノ、勝手にさわるなよっ」って。
 もし、今日本の高校で君が代・日の丸を歌えって、強制したら、歌うと思います。歌わない奴もいるだろうが、それはただ不真面目だから歌わないだけで。そういうことは、彼らにとっては「関係ない」んです。制服もそうです。最近は服装の自由ということは、あまり生徒は主張しない。それよりも、制服を自分の好きなように改造することにはこだわります。この点、僕はまだよく整理できていなんですが、制服そのものは、彼らにとってすでにパブリックなもので、プライバシーの領域に入らない。だから、「関係ない」んです。
 さて、外国に行って、自由を実感した後、我々は何をするか。まず、日本紹介ですね。授業だの、パーティだのでやるんです。それがまた実に悲惨なイベントです。一言で説明すると、「ゆかた来て、鶴を折って、剣道して」。つまり、我々が見せている日本は、我々が生きている日本じゃないんです。もう、これはサイードの『オリエンタリズム』そのものでして、西欧人のイメージする日本を、そのままリピートしてるだけなんです。そして、ホストファミリーは、「日本文化に触れた」と満足する。戦後のアメリカにおけるグレート東郷の役回りを、今、高校生がしてるわけですね。
 逆に、ホストが期待しているものも、そのようなオリエンタリズムのまなざしから見た「日本」です。
 生徒はそういうことに関して、実に屈託がないんです。もちろん、自分たちだって、自分たちが見せているのが、普段の自分でないことは十分に理解しているし、ちょっぴり疑問にも思っている。でも、そういうことは小事なんです。「向こうが期待してるから、それに応えてやらないと」程度かな。よく、交換留学後の感想文に「自分は日本人なのに、日本のことを知らなくて恥ずかしかった。これからは日本のことをよく勉強したい」なんて書いてくる子がいますけど、これは、日本人であることを再確認したわけじゃない、ただ、期待に応えられなくてごめんね、こんどはうまくやるからね、というメッセージなんです。そういう子に限って、大学は英語学科なんかに進むんですから。本当に日本のこと知りたかったら、別の選択肢を選ぶでしょう? でも、今まで国際交流で何十人も生徒を外国に連れて行って、ただの一人も日本文学だとか日本思想なんかの分野に進んだ生徒はいません。さっきの生徒も、現在、スペイン語を専攻しています。日本語学科って子はいましたが、これは、「外国で日本語を教えたい」というのであって、日本を知りたい訳じゃない。つまり、「日本のことを知らなくて」という子であっても、基本的には日本は添え物です。だから、日本の日本的な部分をしっかり学んだり、伝えたりということは、はっきり言って、どうでもいいんです。
 じゃ、留学先の文化、ま、異文化ですよね。それに興味があるかと言うと、それも大したことありません。美術館に行って感動するとか、雄大な自然を見て感動するとか、そういうことも、ささやかにはありますが、そういうことよりも、なによりも、彼ら・彼女らにとって一義的なのは、外国人の友達を作ること、それから「買い物」です。
 外国人の生活というのは、実に充実して見えるようです。ニュージーランドでもオーストラリアでも、現実的には失業率の高さで国民は結構ひいひい言っているところがある。ところが、生徒に見えるのは、なんと言っても、普段の日本での生活とは違う生活のパターンです。これを体験するだけで、自分の私的領域が満たされてくる。簡単に言うと、「私、こういう自由な生き方もできるんだ」という充実感です。僕の学校の姉妹校は、オーストラリアでもサーフィンの盛んな田舎町なんで、仕事のない若者が失業保険で生活できるから流れてきて、昼間からサーフィンをやってる。それを見てさえ、「あー、豊かに暮らしている」と感じちゃうんです。確かに、失業サーファーはプライベートライフを満喫していますからね。バディ、というのはホストファミリーを引き受けてくれる向こうの高校生です、そのバディも、放課後、わりに自由時間をもって生活している。母親もパートなんてないから、ガーデニングなんかしてる。この自由さが、日本人高校生にとっては、すごくいいわけです。
 買い物というのは、まさに*4スーブニールで、そうした自由でプライベートの充実した生活の思い出をモノで代償しようとする行為なんじゃないかと僕は想像してます。最近連れて行った生徒で、向こうでチョコレートを一万円分くらい買った子がいました。で、ホストが心配して、こっそり僕に電話してきた、「この子は、*5ホリックじゃないか」って。しようがないから、「日本じゃ、外国旅行のおみやげは何が何でもチョコレートだ。これは、家族や友人へのおみやげなんだ」って説明して、彼女の正常を保証してみせるんです。でも、本当は他人へのおみやげしゃないんです。山ほど買ったチョコレートは、彼女にとって、山ほどあった自由の象徴なんです。とりあえず、この自由な私的充実をモノ化しておこうという。チョコレートのひとかけらひとかけらが、自分の失われるであろう自由で充実した体験の一つ一つなんです。といっても、結局食べちゃうんですけど。
 国際理解教育、イコール異文化理解という図式が、皆さんの頭の中にあると思います。で、異文化理解というのは、相手の文化も自分の文化も、等しく大切だと理解することだと。実際、そういうスタンスで、高校の国際交流は行われている場合がほとんどです。(僕個人としては、国際理解教育が本当に異文化教育でいいのかという疑問がありまして、国際理解教育の公民的側面というのを強調してるんですが、それは今回は省きます。)ここで述べたいのは、そういう異文化理解よりも、国際交流で生徒が実感するのは、プライベート領域での自由の実感とその領域の充実だという点なんです。
 そうやって、外国で充実したプライベートライフを送ってきた生徒が、いよいよ日本に帰ることになる。空港にはたくさんの日本人がいる。いかにもプライベートが充実してない。ゴキブリみたいにせかせか動いて、何かやってる。ああ、日本人ってなんて貧しい。でも、自分も、また不自由でプライベートに充実しない生活に戻るんだ。どうして、どうして……と、ここまで来て、最初の「日本人なのが恥ずかしい」という発言が理解できるように思います。
 この話の題名を読んで、皆さんの中には、最初こう想像された方がいらっしゃるんじないでしょうか? この生徒は西欧中心のゆがんだ国際交流の被害者だ。こんなんでは日本は滅びる。なんか日蓮みたいですね。で、日本人としての誇りを教育せよ、「日本人としてのアイデンティティを取り戻せ」……これ、問題のつかみ方が違うだろうと思うんです。
 「日本人なのが恥ずかしい」というのは、民族的アイデンティテイ喪失の宣言じゃないんです。ここでの「日本」というのは、地理的概念じゃないんで、彼女が日常的に生きている「在り方生き方」、これ学習指導要領からのパクリなんですがそういた「在り方生き方」を言語化した時のラベル、いわば心理的領域なんです。だから、「日本人なのが恥ずかしい」というのは、あえて言うならば、自分の日頃のの「在り方生き方」への訣別宣言ととるべきなんじゃないか、その否定したい「在り方生き方」というのは、プライベートの領域での自由が確保されず、その領域が充実していない「在り方生き方」です。今の高校生は、そうした私的領域での自由に渇望している。そして、国際交流に彼らが無意識に求めているのは、その渇望をいやすことなのではないか。念のため言っておきますが、僕は、国際交流・異文化理解がナンセンスだといっているのではありません。国際交流をする高校生の、心の在りようを見つめることが、より本質的な教育の問題なんだと言いたいわけです。
1-3 若者は、「人の道」を見失っているのか。
 この「私的領域での自由」というのが、実は、国際理解教育を超えて、現在の教育一般、あるいは社会一般を考える際の大きなキーワードになるんじゃないか。私の話の後半は、そういう観点からスタートしたいと思います。
 今、若者に限らず、社会のモラルというのが、いろいろと取りざたされています。突出した刑事事件が起きるたびに、あるいは、茶髪だとか、ガングロだとか、若者風俗が取り上げられる度に、「モラルはどうしたんだ」という話になる。
 でも、僕は、現代青年にもしっかりした道徳法則があると信じています。それも*6カント流に言えば、空なる星と同じくらいブリリアントな内なる道徳法則です。それはこうです。
 「他人に迷惑をかけない限り、自分は何をしてもよい」
 タバコの生徒も、薬物容認の生徒も、基本的には、この線に沿って発言していることは間違いありません。「関係ねーだろ」というのは、「おまえに迷惑はかけていない」のパラフレーズなんです。
 ついでに言うと、タバコの生徒の「みんなやってるよ」というのは、〈みんなやっていることなのに、じぶんだけ怒られるのは不平等である。たとえ非行についてであっても、われわれは平等に扱われる権利を有する〉という前提に立っての発言と考えられます。つまり、「関係ねーだろ」「みんなやっているよ」という捨てぜりふこそ、戦後日本のモラルの二本の軸、というより二十世紀世界のモラルの二本の軸であった、「自由」と「平等」の、若者的な受容形態なわけです。
 平等の問題は、今回はおいておいて、「自由」の方がどうしてそう言う風に受容されたのかということを、ここでは検討したいと思います。
 思えば、これは、日本国憲法でいろいろ保障している自由権に密接につながってます。さらに言うと、明治初期の啓蒙思想家たちが熱心に紹介した功利主義、特にJ.S.Millの思想に酷似してます。この点は、*7ここ数年、京都大学の加藤尚武先生が指摘しているところです。(先生というのは、実は、僕の学生時代、加藤先生が東北大の助教授だったからなんですが。)
 J.S.Millの『自由論』には、こういう記述があります。*8「文明社会の成員に対し、彼の意志に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他人に対する危害の防止である。」「人間の行為の中で、社会にしたがわなければならない部分は、他人に関係する部分だけである。自分自身にだけ関係する行為においては、彼の独立は、当然、絶対的である」。加藤先生は、『自由論』を次のように要約さてれます。*9「①判断能力のある大人なら、②自分の生命、身体、財産などのあらゆる〈自分のもの〉にかんして、③他人に危害を及ぼさない限り、④たとえその決定がその当人に不利益なことでも、⑤自己決定の権限をもつ」。
 日本人が、J.S.Millという個人の存在に影響されて、こういうモラル観を持ったとはとても言えませんが、確かに、今の定義は、我々の持っている日常的なモラル観によく似ていると感じられます。
 でも、たいていの人は、自分たちの倫理観がミルだって言われても納得できないはずです。「そういう人は知らない、聞いたこともない」という人が多数派でしょうから。だから、直接、僕たちがミルから何かを学んだわけじゃない。でも、似ているのはわけがある。そう思える節があるんです。
 戦後の日本は、社会思想の基本として、日本国憲法を据えることからスタートしました。そこで強調されたのは、やはり自由です。『あたらしい憲法のはなし』という1947年に文部省が出した教科書──中学1年生用です──は、あまりに有名ですが、そこでは*10「人間がこの世に生きてゆくからには、じぶんのすきな所に住み、じぶんのすきな所に行き、自分の思うことをいい、じぶんのすきな教えにしたがってゆけることなどが必要です。これらのことが人間の自由であって、この自由は、けっして奪われてはなりません。また、國の力でこの自由を取りあげ、やたらに刑罰を加えたりしてはなりません」と書いてあります。日本国憲法の基本的人権の部分を取り出しているわけですが、「じぶんのすきな」が強調されているでしょう? 1948年の『民主主義』──これは中学の上級生用の教科書です──にも、「民主主義が『國民の福利のための政治』を行うということは、……他人の自由を侵さない限度において各人の人間としての自由を確立するといことにほかならない」と明記してあります*11。まさに、ミルそのものですが、これが日本人のモラルの再出発点だったわけです。
 日本の教師には、道徳教育を罪悪のようにいう人が多いんですが、そういう人たちでも、この日本国憲法に示されたモラルは認めているわけです。護憲派・改憲派を問わず、自由権を認めないという人はいないでしょう。戦後、教師たちが教えた唯一の統一したモラルは、この「自由」、それも「じぶんのすきな」が繰り返される自由だったわけです。
 子どもが減ったから甘やかすようになったのではない。甘やかすために子供を減らしたのだ。戦後、日本人が求めた「在り方生き方」は、端的に言えば、私的領域を確保し、それを充実させる生き方だったのだ。それを全うするためには子どもが多いのは不都合なのだ。
 2-1 『人生が二度あれば』から『孫』へ
 戦後の日本人の営みは、「自由」の視点から見れば、いかに「じぶんのすきな」の領域を確保し、広げるかという挑戦だったと言えます。村落共同体の共同体規制から離れ、直系家族下の「親に孝に」の倫理から離れ、職業の世襲から離れ、見合い結婚から離れ、学校を卒業し、会社に就職をして、そうしてようやく到達したのが、「マイホーム」つまり、「プライベートな領域の確保」だったわけです。
 今から二十五年も前でしょうか、井上陽水が『人生が二度あれば』という歌を歌ってます。あそこでは、「母は子供だけのために歳を取った」って歌ってます*12。その子、つまり陽水の世代の子どもが今の青年なわけです。でで、現在、『孫』っていう歌がはやってますよね。あれに、「自分は働きづめで子に十分なことがしてやれなかった。それを孫にしてるだけ」という意味のセリフが出てきます*13。陽水の「母」は、孫持ちになって、こんどは陽水の世代にしてやれなかったことを、陽水の子にしているという……。戦後、日本人は、三世代かかって、「じぶんのすきな」を何とか実現しようとして努力してきたんだということが、こんなところから読み取れるんじゃないかと思います。
 2-2 若者は戦後第三世代……戦後、大衆の日々の営みの目標となったのは、「私的領域」の確保。「じぶんのすきな」ことのできる領域の確保だった。
 「じぶんのすきな」の内実はもちろん世代によって変化してきました。第1世代が、〈自分の好きなものが食える〉であったとするならば、第2世代は、〈自分達家族のすきにできる領域を作る〉だったでしょう。そして、第3世代で、はじめて〈自分個人のすきな領域で自由に生きる〉が成就したわけです。ここでは、それをマイ・ミール(私の食いぶち)、マイ・ホーム、マイ・ルームということばで勝手に区分してます。ごめんなさい。
 戦後第1世代の「戦時中は、あるいは、戦後は食えなかった」は、もう決まり文句のように日本中を闊歩していたので、特に説明の必要がないかと思います。
 第2世代については、三菱総研にいらっしゃった三浦展(みつぐ)さんが、マイホームがあって、核家族でという生き様が第2世代の目標だったと書いてます*14
 今の親御さんは、「自宅通学」にこだわります。城西国際大学のパンフを見てください。埼玉の越谷から、ここまで通っている学生さんの話が出てきます。一日往復数時間と、一月数万円をかけて通うわけです。これ経済的には必ずしも合理的ではありません。まして、時間的にはね。でも、それほど、親御さんは自分の確保した「マイホーム」、つまり、家族の私的領域にこだわるのです。
 でも、現実にはマイホーム入手のためにはローンもはらわなけりゃならない。そうすれば奥さんもパート、まだまだプライベートは充たされていないんです。そして「子供」に自分のできなかった夢を託すと……。
 2-3 「私の若い頃はできませんでしたから、子供には自分のすきなようにさせてやりたいのです」の内実の変化
 実際、今の保護者、特に保護者の中には、「子ども」に自分のできなかった夢を果たす傾向が見られます。
 最初にあげた海外交流でも、子供よりも、お母さんが熱心という場合があります。自分の若い頃は外国に行くなんて夢の夢だった。その夢を子供で叶えようというわけです。そういうお母さんの場合、交流プログラムについて、実に熱心に言ってきますから、すぐにわかります。
 また、僕は演劇部の顧問なんですが、最近、親子一丸となって俳優を目指すという「親子鷹」が出てきました。現実にそうしてプロの役者さんになっている人もいます。大学でもそうです。城西国際大学からも、今年は扉座に、一昨年は、これは中退ですが、無名塾に進んでますよ。一昔前は、「演劇なんてアカがやる」ってことになってたんですがね。やっぱり、「自分の果たさせなかった……」という部分はあるでしょう。社会的地位だとか、経済的安定だとか、そういうかつては当然だった視点からは、子供の将来を見ない、それは確たる傾向として存在します。
 そういう青年達のすべてが経済的に自立できるわけじゃない。じゃ、彼らはどうするかというと、フリーターをして、親に援助してもらいながら、自分の夢、実は親の夢に邁進するわけなんです。
 当然、たくさんの子供は作れない。自分の夢を代行してもらうためには、あまり生める子の数はきまってきます。実は、私には子供が二人います。長男が「善意」、長女が「真実」っていいます。最初は、真善美でそろえるつもりだったんです。でも、どう計算しても、自分達の目論見通りに三人育て上げる収入はない。あきらめて、美は、かみさんで我慢することにしました。
 僕たちの目論見は成功した。でも、予想外のことが一つあった。(予想しようと思えばできたのに、わざと気がつかない振りをしていただけなんだけど。)「私的領域が拡大して、しかも動き出したこと」だ。そして、私的領域は、屋外に飛び出し、他人の「私的領域」とバッティングしてしまうようになった。そしてコンフリクトが生まれた。
 3-1 女子高生は、車内で化粧もするし、ホームで靴下も履き替えるぞ。
 ですから、その子供たち……第3世代です……は、「生まれた時からテレビがあって、思春期には自分の部屋があった」、そういうふうにわざわざお膳立てされて生まれてきた世代です。そこまでは予想通りなんです。
 ところが、一つだけ、目論見違いがあった。自分の部屋をやっちゃったら、その部屋、つまりプライベートな空間がどんどんひろがっちゃったんです。
 私的領域の肥大というのは、もう、どこでも見られます。今、女子高校生は、列車の中でお化粧しますよね。これもそうです。彼女らは、それに罪悪感はないです。実は、お化粧以前にも、彼女らは、よく列車の中で食事してました。食事がいいなら、当然、化粧だっていいわけで、その理屈からすれば、着替えしたっていいんです。これ冗談じゃありません。一年前、東金駅のホームで、私立高校の制服をきた女子高校生が突然ソックスを脱ぎ始めた。「あっ」と、その時、僕はホームに飛び込むんじゃないかと止めようと思ったんです。全然、合理的な判断じゃないですけどね。そしたら、彼女は、やおら鞄からルーズソックスを取り出して履き替え始めました。ま、そういうことです。
 3-2 携帯電話もはてしない授業中のおしゃべりも。私的領域は、ノートパソコンにみたいに、「モバイル化」した。
 じゃ、なぜ電車の中とか、ホームとか、そういう本来公的な場だと思われているところで、そんなプライベートな営みができるのか。簡単に言うと、自分の部屋がノートパソコンみたいにモバイル化しちゃったんですよね。いつでもどこでも、自分の都合にしたがって、私的空間があらわれる。
 そこからどういうモラルの問題が現れるか考えてみたいと思います。
 J.S.Millは、民主社会では、国民全体が質的に向上すると考えた。それを保障するのが私的領域の自由だった。ところが、私的領域の自由に完全にべったりになっている若者は、向上の必要を感じない。私的領域の自由が完全に守られれば、それで満足なんです。それ以上の向上は必要ない。だって、向上というのは、何か社会的なものなわけですから。大人になって何をやっていいかわからない。
 現代日本の思想的問題の根本には、本来国民によって選挙された、つまり、自らの意志によって、自分の主権を委託したはずの国会・内閣を、まるで封建領主のように自分たちの意志とは無関係に暴虐をふるう存在として認定し、それに抵抗しようという考え方があると思います。これは「顛倒」です。
 その背景には日本の社会科教育のスタンスも関係しています。日本の高校では、倫理という科目は必ずしも教えません。でも、憲法の原理は教えます。それは、つきつめていえば、ジョン・ロックの思想です。彼は、国家、特に絶対王制のような国家体制に対する個人の自由を訴えた。抵抗権という考え方はそこから来ています。理念上、合衆国憲法のエピゴーネンである日本国憲法の、その理念的背景は、ロックでとまっていて、ミルまでいきません。つまり、国民は国家の暴虐に対して自分の権利を守っていこう、と。ところが、国民主権下でおきる、さまざまな問題には、ロックは心至らなかった、つまり、「多数派の暴虐」に対して、どうするか。主権者として国民はどう振る舞うべきかについては、日本の教育では論じないのです。
 (日本に限らず、アングロサクソンでない文化体系の下の思想では、「国家」に懐疑的で、そこから逃走したり、離脱したりしようという傾向が強いのですが、それは端的には、強者、アングロサクソン=功利主義的支配に対する弱者の、せいぜいよく見積もっても異議申し立て、実際の感情としては、*15ルサンチマンがあるような気もしますが、ま、それはおいておいて……。)
 こうした転倒から、具体的にはどういうモラルが生まれてくるか。社会の干渉が及び得ないプライベートな領域への逃避です。功利主義的な正義感からすれば、プライベートな領域に社会、つまり権力は入り込めない。だから、自分は、その領域に逃げ込む。外へは出ない。だから、放っておいて、というわけです。「公共」を語るのがとてもこわいという。でも、このモラル自体が、憲法という「公共」モラルの保障下にあるわけなんです。
 これが現代社会の問題状況を読む鍵だろうと僕は今考えています。教育で言えば、先ほどの、登校拒否からいじめまで、基本的にはプライベートへの逃避そのものです。もちろん、その背後には大人社会のプライベートへの逃避もあるわけです。しかも、プライベートの範囲が、せいぜい核家族単位ですから、高齢者の介護なんかは、プライベートの領域からはみだす。それは「社会」でやって……と、こういう傾向にありますよね。
 J.S.Millは、「プライバシーの絶対」を唱えはしたけれども、プライバシーの拡張までは読めなかった。もし、われわれが功利主義的なモラルを今後も公共のモラルとして採用していくならば、「肥大し、動き出した私的領域」をどう取り扱うかという問題が出てくる。思想史的には、いつくかの解決提案が出てきます。が、それにふれると、倫理思想史講義みたいになっちゃうんで、興味のある人は、東金高校に再入学して僕の倫理の授業を聞いてください。
3-3 この異常な事件は、レアケースだろうか?
 この私的領域の拡大と移動という点で興味深いのが、例の新潟の女性監禁事件です*16。資料を見ていただければわかりますが、容疑者は、「かわいかったので連れていった」と供述しているんです。しかも、自分の部屋に連れ込んでも、彼は自分自身の領域と彼女の領域をはっきりわけています。「部屋の床にビニールテープで線を引き、女性に『ここから外に出るな』」というのは、まったく、その例です。簡単で恐縮ですが、現在、異常な事件と呼ばれているものにも、実は私的領域が拡大化してモバイル化して、それで結局は、「他人に迷惑をかけない」という私的自由の留保条件に抵触してしまったという事件が、実は多いんです。
 いじめというのも、私的領域が肥大し、モバイル化して起きたと考えられます。団結の自由というのをJ.S.Millは言ってます。彼の言う団結の自由はこういう意味です。*17「他人に迷惑をかけなければ、人は、どんな目的のために結合してもよい」。いじめは、基本的にはグループで起こる、まさに「多数派の専制」状況なんです。でも、その多数派は、最大でもクラス単位、たいていは友達グループの中での多数派なんです。というより、いじめの対象になる友達は、自分に所属する「自分ダッシュ」という感覚かもしれません。昔あった女子高生コンクリート殺人事件の主犯は、「友達なら大切にするが、拉致した女子高生はモノに思えた」と供述しているそうです。これは、「女子高生は、自分とは別だけど、自分の所属物だ」といっているわけです。いじめの対象を人と見るにせよ、モノとミルにせよ、それは自分に属するのです。だから、いじめる連中は、これはプライベートだと感じている。公共の領域ではないんです。だから、官憲──つまり先生ですね──は介入するなと。「関係ねえだろ」という紋切り型は、基本的にはそういうことです。私的領域に公的権力である教師は入っていけない。そういうモラル構造が、現在の教育の問題の背後には、確かにあります。
 僕たちは、次世代に、「他人のまなざし」を気づかせる責任があるんじゃないだろうか。だから、「けむったい第三者」になろう。「俺は親じゃない。だから、許さないこともあるぞ。しかも、俺はテレビでもない。都合が悪くなってもスイッチは切れないぞ」と言おう。
 じゃ、大人は何と言うべきか。結論は簡単です。「関係ないだろ」に対して、「関係あるんだ」と言うことです。表題の「俺はテレビじゃない」というのは、人間関係というのはテレビのようにスイッチきればおしまいってわけにはいかないぞ、リセットはかかんないぞという、大人のメッセージなんです。
 現代の日本において、若者は、パブリックな場というものを、実は、テレビを通じて体験してるんじゃないでしょうか。社会、つまりパブリックな場ですね、への扉は、近所の公園だとか、幼稚園だとか、ま、いろいろ「あり得る」んですが、実際にはテレビの存在が決定的です。数えきれないほどの「外」からの情報がテレビを通じて子供にもたらされます。「世界の車窓から」で世界の都市を見て、「ニュースステーション」で世の中の出来事を知って、アニメでヒーローに出会うわけです。テレビは、パブリックな場をプライベートな場へ持ち込む装置のような役割を果たしている。これは間違いない。(このパブリックとプライベートとの位相については別の機会に述べたいと思います。)
 ところが、テレビ越しのパブリックには、現実のパブリックとは決定的な違いがある。スイッチが切れるという点です。テレビ越しのパブリックはプライベートの都合に従属する存在です。こっちの都合で、あちらの都合は関係ない。面倒だったら、気に入らなかったらスイッチきれるんです。たまさかテレビゲームのリセットを問題にする方がいますが、ゲーム機よりはるかに早くテレビのスイッチ切りは始まっているでしょう。「巨人が負けそうだ。スイッチ切れっ」て。
 これが現実のパブリックな場、学校だとか、電車の中だとかまでに拡張されれば、今まで述べてきた若者の行動になるわけです。あんたなんか関係ないと。自分ではもうスイッチ切ってるんだがら、化粧してるとこなんか見ないでよと、こういうわけです。
 こう考えると、よくお母さん達が「テレビなんか消して、勉強しなさい」なんて感じで、スイッチ切らせたりするでしょ。あるいは、「テレビゲームは一時間」みたいに時間決めさせたり……。あれがいけない。本当は、「テレビでしゃべってる人に悪いから終わりまで見なさい」とか「ここでリセットしたらダルシンが死んじゃうでしょ。最後までやりなさい」が正しい。あ、ダルシンってのは、テレビゲームのキャセクターの一人です、念のため。
 このパプリックの場における「スイッチ切り」に対して、「そうじゃないんだ、関係あるんだ」ということが大切なんだと、私は言いたいわけなんです。
 「他人のまなざし」に気づく。戦後の私的自由の追究の過程で、だんだんなおざりにされてしまっているのは、この「他人」の存在なんです。
 「他人」に気づく、それだけで、若者は変わる。そう思います。
 二年前、千葉のセントラルプラザで喫煙している高校生を見つけました。たまたまその時、教職志望の生徒と歩いていたので、見過ごすわけにも行かず、注意しました。さんざん罵詈雑言を浴びせかけられましたが、彼らは全員タバコは捨てました。
 「他人」の存在、21世紀のキーワードとして、このあまりに平凡で、あまりにも自明の事実に注目したいと思うわけです。
 とりあえず、最後に、こうまとめたいと思います。
 公共のモラルについての、グローバルスタンダードというのは、どうも内実はアングロ・サクソン的な功利主義モラルのようだ。そうした疑念をも含めて、教育者は、現代の児童・生徒・学生にまとわれつくモラル観を整理し、検討を加えなればなりません。20世紀は、モラルの体系がいったん解体されて、それを「自由」をキーワードに相対的に再構築しようとして、いろいろと面倒をおこしてしまった時代だった。21世紀教育のカギは、「自由」がキーワードたりうるかという検討も含めて、真にグローバルなモラルを自覚的に再構築することにあります。国際理解教育も、その枠内で、その本当の意義が再検討されるべきなわけです。第一義であるモラルの問題が解決されないと、真の異文化理解も成立しない、そういう予感が僕にあるんです。(終わり)

*1 喫煙した生徒への典型的な指導スタンス  = 禁煙教育
             1)タバコは自分の体を害する
             2)副流煙で他人に迷惑をかける
*2 第一条 満二十年ニ至ラサル者ハ煙草ヲ喫スルコトヲ得ス
  第二条 前条ニ違反シタル者アルトキハ行政ノ処分ヲ以テ喫煙ノ為ニ所持スル煙草及器具ヲ没ス
  第三条 ①未成年者ニ対シテ親権ヲ行フ者情ヲ知リテ其ノ喫煙ヲ制止セサルトキハ一円以下ノ科料ニ処ス
    ②親権ヲ行フ者ニ代リテ未成年ヲ監督スル者亦前項ニ拠リテ処断ス
第四条 満二十年ニ至ラサル者ニ其ノ自用ニ供スルモノナルコトヲ知リテ煙草又ハ器具ヲ販売シタル者ハ十円以下ノ罰金ニ処ス
(『未成年者喫煙禁止法』明治33年施行 昭和22年改正)
*3 A
「覚せい剤など薬物使用、高校生の2割が「個人の自由」--総務庁アンケート」
 覚せい剤などの薬物使用について、高校生の約2割が「個人の自由」と考えていることが25日、総務庁のアンケートで明らかになった。
 調査は昨年6~7月、全国の高校75校の2年生2万5902人とその保護者、教員を対象(計5万6672人)に無記名方式で実施。90.7%が回答した。
 薬物の所持・使用が法律で罰せられることについては高校生の90.3%、薬害については91.7%が「知っている」と回答。「禁止されているので絶対に使用すべきではない」は61.9%にとどまり、20.4%が「個人の自由」、2.0%が「種類によって1度くらいはいい」と答えた。「個人の自由」と考える生徒は、男子27.0%、女子14.1%だった。薬物に関する調査は文部省がほぼ同内容のアンケートを行い、昨年10月に結果が公表されている。
(『毎日新聞』1998.01.26)
「『薬物使用は個人の自由』 高2・高3の男子は2割『容認』--文部省調査」
 覚せい剤など違法な薬物について高学年になるほど「使うかどうかは個人の自由」と考える子供が増えていることが13日、文部省が発表した小・中・高校生対象の意識調査で分かった。 調査は、年々増加する少年少女の薬物事件の背景を探るため文部省が初めて実施した。全国で公立小・中・高校825校7万8000人の児童生徒(小学生は5、6年)を無作為抽出し、記入式のアンケートで薬物に関する知識や考え方などを聞いた。
 「使用をどう考えるか」は全学年男女とも「絶対に使うべきではなく、許されない」が最も多く、小学生から中1にかけては9割前後を占めた。しかし、学年が進むにつれ減少。高3男子ではこれが68・6%に落ち込む一方で「(使用は)他人に迷惑をかけていないので、使うかどうかは個人の自由」が15・7%▽「心や体に害がないなら、1回くらい使ってもかまわない」が4・5%あり、こうした“容認派”が2割を占めた。高2男子もほぼ同様の結果で、高2、高3女子でも1割を超える。
 「なぜ使用者が増えるか」(複数回答)には、高校男女のほぼ8割が「簡単に手に入るようになっている」と回答し、次いで「怖さについて誤った認識がある」が多かった。
 薬物を飲むと体に害があることは中学生以上のほとんどが知っているが、一方で「薬物の有害性、危険性をもっと知りたいか」には高学年ほど関心が薄れ、高3男子では「知りたい」22・2%に対し「知りたくない」が24・8%と逆転。「どちらでもよい」が高3男女とも半数を超えた。
 また高3男子のほぼ4人に1人は薬物使用に「よい気持ちになれる」という印象を持ち、高3女子の10人に1人近くは「ダイエットや眠気覚ましに効果がある」と思っている。
*4 souvenir 英。みやげ。本来のフランス語では、「思い出」の意。
*5 -holic 英。「~中毒の人」という名詞を作る語尾。ここでは、「チョコレートに対する病的嗜好」の意。
*6 カント『実践理性批判』結語
*7 加藤尚武『20世紀の思想』,1997年、PHP研究所
*8 『自由論』序章
*9 加藤尚武『現代倫理学入門』、1997年、講談社  p5
*10 「人間がこの世に生きてゆくからには、じぶんのすきな所に住み、じぶんのすきな所に行き、自分の思うことをいい、じぶんのすきな教えにしたがってゆけることなどが必要です。これらのことが人間の自由であって、この自由は、けっして奪われてはなりません。また、國の力でこの自由を取りあげ、やたらに刑罰を加えたりしてはなりません」
(『あたらしい憲法のはなし』七 基本的人権、文部省、1947年)
*11 「民主主義が『國民の福利のための政治』を行うということは、……他人の自由を侵さない限度において各人の人間としての自由を確立するといことにほかならない」
(『民主主義』第13章5、文部省、1949年)
*12「母は今年九月で六十四。子どもだけのために年取った。母の細い手、つけもの石を持ち上げている。そんな母を見てると人生が誰のためにあるのか解らない。子どもを育て、家族のために年老いた母。人生が二度あれば、この人生が二度あれば。」
(井上陽水作詞『人生が二度あれば』、1972)
*13「もみじみたいな 小さな手でも いまにつかむよ 幸せを 仕事いちずで 果たせなかった 親の役割 代わりの孫に 今は返して 今は返して いるところ」
(荒木良治作詞『孫』、1999)
*14「愛し合う男女の恋愛結婚。彼らが住む家。『愛されて』いる『奥さん』が乗る車。フランスパンとワインの並んだ食卓」
『「家族」と「幸福」の戦後史』、三浦展、1999年、講談社
*15 ressentiment 仏。うらみ。ニーチェは、キリスト教道徳の源泉を弱者の強者への「うらみ」に求めた。
*16 「かわいかったので」 新潟女性監禁容疑者が供述 暴力最近まで
 新潟県柏崎市の女性長期監禁事件で、未成年者略取と逮捕監禁致傷の疑いで逮捕された××容疑者が、同県警捜査本部の調べに対し、当時小学四年生だった女性を連れ去った理由について「女の子を探していて、たまたま見かけて、かわいかったので連れていった」と供述していることが十二日わかった。……「最初から(この女性を)狙っていたわけではない。かわいかったから」は話し、監禁し続けたことについても「かわいかったから外に出したくなかった」と供述しているという。だが、女性が車で連れ去られた三条市の小学校の近くは周囲の地理に詳しい人以外はほとんど通らないことから、捜査本部は××容疑者が最初から女の子を連れ去る目的で現場を訪れていたと見ている。
(『朝日新聞』2000.2.13)
<新潟監禁>ビニールテープで区切り「外に出るな」と命令
 新潟県三条市の女性(19)が長期監禁された事件で、××容疑者が自宅の部屋の床にビニールテープで線を引き、女性に「ここから外に出るな」と行動を制限していたことが15日までに分かった。また、物音を立てないようにも命じていたという。
*17 J.S.ミル『自由論』第一章 第12段落
Thirdly, from this liberty of each individual
follows the liberty, within the same limits,
of combination among individuals; freedom
to unite for any purpose not involving harm
to others….

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