生きがいについて(神谷美恵子)

A 青年期は一般に、もっとも烈しく、もっとも真剣に生の意味が問われる時期である。若いひとたちに日頃接している者ならば、だれでもおぼえがあろう。いったいどうして勉強などしなくてはならないのか、どうして生きて行かなければならないのか、どんな目標を自分の前においたらよいのか、と不安と疑惑にみちたまなざしで問いつめられたことを。(中略)ところがその青年たちも大人になると、いつしか生存の意味を問うことを忘れ、ただ生の流れに流されて行くようにみえる者が多い。

B ところで生きがい感と幸福感とはどういう風にちがうのであろうか。たしかに生きがい感は幸福感の一種で、しかもその一ばん大きなものともいえる。けれどもこの二つを並べてみると、そこにニュアンスの差があきらかにみとめられる。ざっとその主なちがいを考えてみれば、生きがい感には幸福感の場合よりも一層はっきりと未来にむかう心の姿勢がある。たとえば、現在の生活を暗たんとしたものに感じても、将来に明るい希望なり目標なりがあれば、それへむかって歩んで行く道程として現在に生きがいが感じられうる。

反対にはっきりした使命感を持つひとなどでは、現在の生活があまりにも幸福で、その幸福感が自分の使命感を鈍らせると感じれば、自我の本質的な部分ではかえって苦痛をおぼえるということもある。フローレンス・ナイチンゲールが上流社会の娘として、表面でははなやかな生活をしながら、心のなかでは自分の使命について暗中模索している頃の「病的なメランコリー」の精神状態はその例である。当時の彼女の日記には次のようなことが記してある。「私が今いだいている思いや感情は六歳の頃から記憶しているものだ。何か一つの職業、仕事、必要なわざ、何か私の全能力を用い、みたすむの、それが私に本質的に必要なものだと私はいつも感じて来た。いつもそれにあこがれて来た。私の思い出しうる最初にして最後の考えは看護の仕事だった。それがだめなら教育事業、それも若いひとの教育でなく悪いひとの教育を……。あらゆるものが試みられた。外国旅行、親切な友人たち、何もかも。ああ、私はどうしたらいいのだろう。望ましい青年だって? ばかばかしい! そんなもののどこが望ましいというのだろう! 三十一歳になった現在、私には死以外に何も望ましいものは考えられない。」

もう一つ幸福感とちがうところは、上の例でもわかるように、生きがい感のほうが自我の中心にせまっている、という点である。幸福感には自我の一部だけ、それも末梢的なところだけで感ずるものもたくさんある。たとえば多くの男のびとにとって家庭生活の幸福は、それだけで全面的な生きがい感をうむものではなかろう。ところがどんなに苦労の多い仕事でも、これは自分でなければできない仕事である、と感ずるだけでも生きがいをおぼえることが多い。これはその仕事をすることによって、 そのひとの自我の中心にあるいくつかの欲求がみたされるからである。

第三に、生きがい感には、意識的にせよ、無意識的にせよ、価値の認識がふくまれることが多い。そこが幸福感とちがうといえる。

どういうひとが一ばん生きがいを感じる人種であろうか。自己の生存目標をはっきりと自覚し、自分の生きている必要を確信し、その目標にむかって全力をそそいで歩いているひと──いいかえれば使命感に生きるひとではないであろうか。

Proudly powered by WordPress   Premium Style Theme by www.gopiplus.com