あるとき、生きることに疲れた二人の人が、たまたま同時に、私の前に座っていました。それは男性と女性でした。二人は、声をそろえていいました、自分の人生には意味がない、「人生にもうなにも期待できないから」。二人のいうことはある意味では正しかったのです。けれども、すぐに、二人のほうには期待するものがなにもなくても、、二人を待っているものがあることがわかりました。その男性を待っていたのは、未完のままになっている学問上の著作です。その女性を待っていたのは、子どもです. 彼女の.子どもは、当時遠く連絡のとれない外国で暮らしていましたが、ひたすら母親を侍ちこがれていたのです。 そこで大切だったのは、カントにならっていうと「コペルニクス的」ともいえる転換を遂行することでした。それは、ものごとの考えかたを180度転換することです。 その転換を遂行してからはもう、「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うことはありません。いまではもう、「人生は私になにを期待しているか」と問うだけです。人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。
ここでまたおわかりいただけたでしょう。私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは間われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。こう考えるとまた、おそれるものはもうなにもありません。どのような未来もこわくはありません。未来がないように思われても、こわくはありません。もう、現左がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからです。すべてはもう、そのつど私たちにどんなことが期待されているかにかかっているのです。 その際、どんな末来が私たちを待ちうけているかは、知るよしもありませんし、また知る必要もないのです。
この点について、私はいつも、何年も前に新聞の短い記事に載っていた出来事について話をします。以前、無期懲役の判決を受けたひとりの黒人が、囚人島に移送されました。その黒人が乗っていた船は「リヴァイアサン」といいましたが、その船が沖に出たとき、火事が発生しました。その非常時に、黒人は、手錠を解かれ、救助作業に加わりました。彼は、十人もの人の命を救いました。その働きに免じて、彼はのちに恩赦に浴することになったのです。
ここでお尋ねしたいのですが、もしだれかがまだ乗船前に、つまりマルセイユ港の埠頭で、この黒人に、お前がこれからも生きる意味がまだなにかあるのか、とたずねたとしたらどうだったでしょうか。たぶん、黒人は首を横に振らざるを得なかったでしょう、まだどんなことが私を待ち受けているというのか、と。けれども、どんなことがまだ自分を待ち受けているかは、だれにもわからないのです。ちょうど、十人の命を助ける仕事が「リヴァイアサン」の黒人を待ち受けていたように、どのような重大な時間が、唯一の行動をするどのような一回きりの機会が、まだ自分を待ち受けているか、だれにもわからないのです。
フランクル 山田 邦男,松田 美佳訳,『それでも人生にイエスと言う』,春秋社